不況脱出の方向性

いままではよい技術を導入し、それを洗練させて、よい生産設備をつくり、よい商品をつくればそれで済んでいた。しかし情報化社会では、情報システムをうまくつくって、価値あるソフト情報をたくさん入れることによって仕事が成り立つということが多くなる。今日、そこにどう適応するかということが、企業にとってはことに重要になってきていると思われる。

もちろんこれを改革と呼んでもいっこうにさしつかえない。ただ、まちがってはいけないのは、こうした改革や変革に、イデオロギーの被いをかけることである。イデオロギーを注入すると、逆に情報は入らなくなるのだ。イデオロギーは、イデオロギーに相容れないような情報を排除してしまうからである。

私は日本人というのは、本来イデオロギーになじまない民族だと思っている。マルキストも、あるパーセンテージを超えなかったし、日本のキリスト教徒も、あるパーセンテージ以上は伸びていない。むしろ逆に日本人全体は多神教的で、プラグマティックなものの考え方をしてきたといってよい。葉隠れ的な武士の倫理、あるいは商家の倫理も、相容れないようでありながら、基本的には多神教的にプラグマティズムで対応していった。いわばそれが日本的なやり方であって、同時に成功するときのパターンでもあった。その特質がなくなると日本人の強さがなくなってしまう。

不況脱出も、まさにこうした柔軟性を回復することと同時に日本がもっている組織の強さをうまく使いながら乗り切っていくことが大切だろう。そのためにも、いま蔓延しているマゾヒズムに近い考え方から抜け出さなければならない。ここ数年、日本人はダメだ、日本的経営はダメだといわれ、実務家がみな悲観論になった。かつては、たとえ不況のときでも、楽観論を唱える人はいたものだった。ところがいまや一億総悲観論者である。消費者や庶民はまだしも、会社の経営者、政治家、いや官僚さえもがみな悲観論者になってしまった。まず、この心理状況を変えていくことが大切だ。

アメリカの「地域再投資法」に学べ

この不況下で進行しつつある金融再編成の動きは、残念ながら、日本経済の中長期的な展望を念頭に置いたものとはなっていない。それは、結局のところ中小金融機関の切り捨て、あるいは吸収・合併による「集中」化の推進にほかならない。その結果、信用金庫や信用組合の数が「着実」に減少しつつあることは指摘した通りである。

こうした「集中」化推進の論理は、「自由化」による競争促進とそのことによる金融効率化の実現ということであって、地域分散や中小企業金融の安定性等の問題は、「市場メカニズムへの依存」という事のなかに埋没してしまっている。

しかし、一般的にいって、市場メカニズムは、「集中」を媒介するものではあっても、「分散」を誘導するのは難しい。バランスのとれた「分散型経済」を実現するためには、むしろ市場メカニズムに対する一定の効果的なコントロールが必要になる。

そのことを示すものとして、ここでは、アメリカで実施されている「地域再投資法」(CRA= Community Reinvestment Act)に関する事例をみておくことにしよう。同法は、一九七七年、地域の低所得者やマイノリティーなどに対し、金融機関がその融資活動で差別的な扱いをすることを防止する目的で制定されたものである。同法によって、連邦金融監督機関は、金融機関が地域の金融ニーズの充足に継続的に貢献するように、その権限を行使することを義務づけられている。その権限は合併や支店開設などの申請に際して行使され、金融機関の地域貢献が不十分であると判断されると、その申請は認可されないことになる。

たとえば、一九八九年二月、連邦準備銀行理事会は、シカゴを拠点とする大手銀行であるコンチネンタル銀行からの銀行買収の申請を、「地域再投資法」に関する活動(CRA活動)が不十分だという理由で却下した。

日米欧に共通する危機感

私は、アメリカの一部にある「開発独裁型体制に問題がある」とか、「市場が民主化、透明化していないのがいけない」という議論を全く否定しているわけではない。開発独裁よりも民主的であるほうがいいに決まっている。しかし、それが本当に主因なのだろうか。アジア危機の主因はあくまで資本の動きであって、そこに様々な問題が複雑に重なって起きたのではないか、と考えている。

この問題について、最近はIMFアメリカも、一連のプロセスのなかでかなり見方を変えてきている。資本の動きのなかで最大の問題になるのは民間債務だが、そのことを強く意識させたのが九七年末の韓国の国家破産の危機だった。この危機を食い止めたのは、韓国の銀行債務に対する日米欧の協調によるりIスケジュール(債務期限の変更)である。ちょうどクリスマスのときだったが、欧米の担当者がパ土アイーを開いているときに、私は彼等と電話で議論をした。このときまでに我々すべてに明らかになっていたことは、韓国の民間債務をスケジュールしなければ韓国は破綻するということであった。

いくら資金を注ぎこもうと、あるいは経済構造の変革を迫っても、一度入りこんだ資本が焦げついているのだから、それを何とかしなければ解決の糸口すらない。結局、日米欧が協調してスケジュールに応じることに合意した。これで韓国は国家破産を免れることができたのである。

インドネシアについては、IMFは当初、民間債務の話は交渉の席でもち出していなかった。もっぱらインドネシアの財政政策や金融政策についての議論に終始していた。そこで日本とアメリ財務省、ドイツ大蔵省の三者で「民間債務の問題を解決しないと、いくら他のことをやってもうまくいかない」と訴えた結果、IMFも九八年になってインドネシアの民間債務問題をプログラムに入れてきた。

ジョンソンとベトナム

いまとなっては、それは誰にもわからない。だがケネディには、ジョンソンにはない柔軟性がめったことだけはまちがいない。彼は昔から、たとえ以前に自分がある考えかたに与していたとしても、その後状況が変わった場合には、いつまでも古くなった主義や主張にしがみついているのは愚かなことだといい続けていた。自分に対して自信をもっていた彼には、途中でみずからの考えを変える勇気もあったにちがいない。また彼は、べトナム戦争が、究極的には、民族自決のための戦争であることも理解していた。

もちろんベトナムが、共産主義と闘わなければならなかったアメリカにとって非常にむずかしい問題であったことは事実だが、そのことを考慮に入れるならば、もしケネディが生きていたら、あそこまでひどい悲劇をアメリカは味わわなくてもすんだのではないか、と考えることは許されるのではないだろうか。

ケネディに代わって大統領の座に着いたジョンソンは、国防長官のマクナマラを筆頭に、ケネディの優秀なスタッフの多くをその政権に引き継いだ。リンカーンケネディの暗殺の類似性ぱ昔からよく指摘されている。リンカーンを暗殺したブースは一八三九年生まれであり、オズワルドは一九三九年生まれだった。そして二人とも、裁判にかけられる前に、別人によって殺された。二人のあとを受けて副大統領から大統領に就任したのは、どちらもジョンソンだった。

アンドルーとリントンのこの二人のジョンソンは、名前だけではなく、性格的にもよく似ていたといわれている。二人とも同性に対してはまったくというほど気がきかないにもかかわらず、女性に対してはめっぽう親切で、その方面で前任者の業績を凌ぐのにきわめて熱心だった。リンドンージョンソンに関しては、自分のまわりにいる女性全員に焼きごてを押そうとしていた、とまでいわれている。また、二人のジョンソンはともに、大統領が殺された翌日に閣議を招集し、前任者が確立した政策を引き継いで実行に移すつもりだと宣言した。どちらの日にも雨が降っていた。

そのことを取り上げて一部の人間は、ジョンソンはベトナムにおけるケネディの政策を継承したにすぎないといわれるが、やはりその指摘ほまちかっているといわざるをえない。なぜならば、そこには、鋭敏な歴史感覚をもち、ケネディ政権のなかでもっともこの戦争に懐疑的だったケネディ本人が存在せず、ケネディと同様に歴史認識に秀でていたリベラル派のシュレジンガーガルブレイスといった面々は、ジョンソン政権の下では、外交問題に対してほとんど口出しすることを許されていなかったのである。そしてその政権の中心には、一九六一年にベトナムに派遣されて、「東南アジアにおける共産主義との闘いには、必ずや成功を収めるとの決意と力をもって当たらねばならない」という強固な信念を抱いて帰国したジョンソンがいたのである。

社会保障のリフォーム

日本からスウェーデンにやってくる日本人には、二つのタイプがあるとスウェーデン人や在スウェーデンの日本人はいう。ひとつは″社会保障王国万歳″を声高に唱え、なかには日本に帰って「スウェーデンには寝たきり老人はいない」などと叫ぶタイプ。もうひとつのタイプは「スウェーデン社会保障を手厚くしたために財政難に陥った」とするタイプである。

私は、このどちらの考え方も誤りだと思う。端的にいって国民に多少の重税感があったにしても、スウェーデンは過去半世紀にわたって国力の範囲で社会保障を充実する政策を展開し、国民もそれに信頼をおいて多額の税金を納めてきたわけである。

だから、おいそれと社会保障費の歳出を抑制するわけにもいかない。しかし、政府予算の三〇パーセントもの歳入欠陥ということになれば、なんらかの手を打たないわけにはいかない。とはいえ、ロが裂けても「社会保障を削減する」とはいえないのである。

スウェーデンの社会省や保健福祉庁の幹部数人に話をきいたが、誰一人として「社会保障を後退させるのはやむをえない」といった人はいなかった。社会保障そのもののリストラを考えている人はいない。予算削減をせずに効率を上げることを目標にし、若干の修正はやむをえないという考え方である。それを「リフォーム」と呼んでいる。

スウェーデン政府の社会保障分野へのリフォームは、財政悪化の始まった一九九〇年前後から顔をのぞかせはじめている。そのリフォームの具体的な面をいくつか拾ってみよう。この施策を説明したスウェーデン政府の役人たちは、いずれも「財政支出削減のための対策ではなく、効率化をはかった政策である」ということを強調していた。私の邪推かもしれないが、社会保障費を財政的に削減するという発想は、スウェーデンでは、国民にとってタブーなのかもしれない。

特殊な研究課題

これまで「国民性」研究のためのいくつかの方法を簡単にふりかえってみた。もちろんここにあげた数人の学者以外にも多くの人類学者、たとえばベネディクトやミートなどがあるが、アプローチの型としてはおよそ右の三つに分類できるであろう。ところで、実際の研究手つづきとして、かれらはどのような技術によってどのようなデータをあつめたのか。元来、人類学的研究は研究対象たる文化のなかに身をおいて情報を蒐集するのが唯一のやり方であった。

しかし、まえにも述べたように、戦争という突発事故(少なくとも人類学にとっては)によって要請された敵の「国民性」をさぐるという課題にこたえるためには、現地に身をおくという方法は全く不可能であった。つまり、この特殊な研究課題のためには文化人類学の「技術」も再検討を余儀なくさせられたのである。そこに生まれたのが「遠くからの文化研究」すなわち現地踏査抜きの文化研究である。

ふたつの技術が考案された。第一は、従来の人類学的方法、つまりその文化についての情報提供者(informants)をアメリカ国内でさがすことである。さいわい、アメリカには「世界中の国から来ているひとびとがたくさんいたから、各国の生活様式をかなり身につけた移民のグループを見つけだすことは容易であった」日本人研究のためには日系米人、ドイツ研究のためにはドイツ系米人が、いちおうそれぞれのもと属していた文化を代表するものとして面接の対象となる。面接にあたっては、プロジェクティブーテストも援用された。

第二の方法は、コミュニケイション材料を手がかりにした技術である。これは人類学にとってはあたらしい方法だ。もちろん未開社会でのコミュニケイション様式とその文化的役割についてはミートの先駆的業績があるしヽ多くの人類学者たちは文化研究にあたって伝説、格言、芸術作品などのコミュニケイション材料を蒐集してきた。しかし、原始社会とちがって、現代社会は計測できないほど多量のシムボルを製造している。これらのコミュニケイション材料をつかえば間接的にある文化の型をとらえる手がかりになり得るのではないか。

こうした関心から、コミュニケイション材料の意識的な利用が考えられた。G・ベイトスンはこの技術にもっともはやくから注意をはらい、一九四三年には「ナチの宣伝映画をつうじてナチズムの心理的な意味合いをひきだそうLと試みた。彼のこの分析ではやはり重点は「家族の文化的特性」におかれ、劇映画のなかの親子関係のコムプレックスが精神分析の考え方を基として研究されていた映画というメディアに関して研究されている。映画というメディアに関してはウォルフェンジュダインらの労作がその後発表されたし、その他にもライツによる「異邦人」の分節などが文化研究にコミュニケイション材料を応用した例としてあげられるであろう。すなわち、技術としては旧面接によるもの、コミュニケイション材料の分析、および倒師の併用、が主として用いられたのである。

常在微生物は宿主の老廃物の流れの中に生活している

常在微生物は宿主の老廃物の流れの中に生活しているが、常在微生物も異物であることは病原微生物の場合と変わりはない。ただ大きな違いは、常在微生物は、宿主生体の中の流れを積極的には乱さないことである。けれども何らかの原因で宿主の流れが乱れると、その結果、常在微生物が宿主に感染症を起こすことがある。これが日和見感染症と呼ばれるものである。このことは、とくに異物の存在によって、日和見感染症が起きやすくなることを意味している。たとえば尿路に結石ができ、尿の流れが悪くなると尿路感染症が起きやすくなる。血管の中にカテーテルを長く挿入しておいても。その部位に皮膚の常在菌による感染症が起きやすくなったりする。

流れが乱れているということは、その分だけ生物が死ぬ方向へ向かっていると考えると、日和見感染症の病原体が増殖することは、さらに宿主を死に近づけることになる。これに反し通常の感染症や伝染病の場合には、逆に、できるだけ宿主の生命を絶たないように、病原体のほうで病原性を調整しているようにも見える。言い換えると、伝染病の病原体のほうが宿主の生存に依存しているということである。常在微生物は、伝染しなくてもほかの個人、とくに宿主の母方の縁者に自分の仲間が十分、定住しているわけである。したがって常在微生物の種としての存続にとって、特定の宿主の死は問題にならないということになる。日和見感染症を起こしているヒトを、容易に感染を起こしやすいという意味で易感染性宿主と呼ぶが、コンプロマイズドーホストという英語のほうがよく用いられている。どの種類の排除反応を起こす機能が低下しているにせよ、コンプロマイズドーホストとは、排除反応に関係する流れが異常になっているヒトということができる。