白樺の思想

私の場合には、これについては前史がある。私が一高の文科に入ったのが大正七年、志賀さんの第二の短篇集『夜の光』が新潮社から出た年である。白樺の作家たちが漸く世の中に認められ出した頃で、地方出の多い一高生の間では、武者さんや志賀さんの作品を読んでいる者は、文科でもほとんどなかった。ところが私は、中学の終りから武者小路さんを読んでいて、それがきっかけで志賀さんや里見さんの作品に早くからなじんでいた。今でも覚えているが、一高生の私は、麹町の洛陽堂まで足を運んで武者小路さんの『おめでたき人』や『世間知らず』を買い、志賀さんの最初の短篇集『留女』も、同じく洛陽堂までいって手に入れた。市中の小売店にはおいてなかったので、出版元までゆかなければならなかったのである。

それほど私は、二十歳前後に武者小路さんや志賀さんに傾倒していた。じめじめした自然主義の低調さがやりきれず、武者小路さんたちの文学の中に、みずみずしい生命の息吹きを感じていた。吹き抜けるような爽やかな高邁なものがあった。そして、この傾倒は、大学に入って哲学を勉強するようになってもつづいていた。「謙作の思い出」が『改造』に出たときの感動は、いまでも忘れられない。広津さんが好きになったのも、大正八年か九年ごろ、広津さんが『新潮』に非常に理解の届いた志賀直哉論を書いたのを読んでからだったくらいである。

白樺の思想についていえば、社会問題についての考え方については、私なりに生長して、まもなくそれから抜け出してしまったのだが、なんといっても二十歳前後という、精神の骨格の出来あがるころに受けた武者小路さんや志賀さんからの影響は、私にはあとまで深い痕を残した。理論としての思想は移っていっても、その根本のモティーフは、二十代に形成された価値感情から出ている。そして、人生において何が何よりも大切かという価値のけじめ、哲学でいえば価値の序列というやつに関しては、二十代に受けた影響は、誰にとってもほとんど決定的なもののように思う。私の場合、それを、いまも感謝こそすれ、悔いることはない。

アメリカの軍事的威信度

一九九七年から九八年にかけての東アジアの金融危機において、IMFは融資の条件として、国家財政の健全化と企業の経営改革とを強く要求した。私は、それを見て、五〇年近く前のドッジラインを思い出した。

歴史的段階も危機の原因も全く違うが、企業の経営改革を根底においた治療法は、両者に共通している。おびただしい失業者が生じたことも、よく似ている。東アジアがこの危機を乗り超えたら、日本と同じように高度経済成長時代がやってくるのではないか。

ドッジラインと同じ年の十月に、中華人民共和国が成立した。日本共産党の政治力の急速な後退と対照的に、隣国では共産党が政権を握った。アメリカはその二ヶ月前に中国白書を発表して、国民党を見限った。それは、中国の内戦において、国民党軍の援助を続けてきたアメリカの外交の失敗を物語るものであった。

第二次世界大戦後、アメリカの軍事・経済・技術は世界を圧倒していたが、中華人民共和国の成立は、そのアメリカの優位に、早くも陰がさしはしめたことを意味していたのである。一九五〇年、朝鮮戦争が勃発し、米韓両軍は一時は釜山まで追いつめられた。

アメリカの軍事的威信はさらに傷つけられたかに見えたが、仁川逆上陸作戦によって北鮮軍の退路は断たれ、情勢は逆転して、アメリカ軍は鴨緑江まで北上した。その時点でソビエト空軍は参戦し、一〇〇万をこえる中国志願軍が朝鮮戦争に介入した。事実上米中戦争となった。

当時中国軍の小銃はほとんどが二〇をこえる外国の製品であった。弾丸の口径も十三種あった。大部分は独立に至るまでの戦争で敵軍から捕獲したものであった。だから、どの部隊がどの種の小銃を持ってどこにいるのか、分かりにくかっただろうから、弾丸の補給や小銃の修理はひどく面倒だったに違いない。その貧弱な兵器で、中国軍は米軍を三八度線にまで押し返したのである。

しかし、そこでアメリカ軍の陣地戦に引き込まれた。デメリカ軍の兵器の破壊力はかっての日本軍の比ではなかった。中国軍ははじめて、近代的な兵器と作戦との強大な威力に直面したのである。中国軍の戦死者は一三万三〇〇〇人に達した。一方、出動した米軍は延ベ三一万人を超えたが、戦死者は三万三〇〇〇人にとどまった。

ユーロはこう使われる

「非強制」原則には三つの例外が想定されている。ひとつはクレジットによる支払いで、銀行にはユーロと該当する国の通貨の問で必要な換算をする義務が生じる。次いで、未償還債券の予約建てへの変更、さらに、市場における会計単位の変更である。移行期間終了時におけるユーロの紙幣と硬貨の導入と、各国通貨の紙幣と硬貨の市場からの回収。

一九九九年一月一日にユーロは誕生した。三年後の二〇〇二年一月一日からユーロ紙幣とコインが流通する。ユーロ誕生の日に、フランクフルトのウィリー・ブラント広場に集まった市民は、市の広報活動で皆そのことを知っていた。しかしわたくしは広場でのインタビューでこの三年間の移行期におけるユーロの使い方に市民がいくぶん戸惑いを見せていることも感じた。それはECUが市民の生活レベルではそれほど日常的に使われていなかったことを意味する。

ECUは本来国際通貨であって、市民生活のレベルでは、マルク、フラン、リラという各国通貨が幅を利かせる。市民にとってはこれが当たり前のことであって、ECUは何か遠い宇宙からきた通貨としか思えなかったのである。それがこともあろうに、日常生活に使われはじめ、マルクもフランもやがて姿を消すらしい。市民の戸惑いもそこにある。マルクやフランへの郷愁という問題以前に、ユーロをどうやって日常生活に使うのか。

こうしてEU委員会や各国公共機関による必死の広報活動が始まった。部外者のわたくしが代弁するより、EU当局に登場してもらったほうがよいだろう。EU委員会が配布したパンフレットの質疑応答の一部から。「単一通貨の利点は何ですか?」利点はたくさんあります。一つの例として、単一通貨の出現で、共同体を旅行する人はもう通貨を両替する必要がなくなります。今までと違って、両替のための時間も費用も節約できるのです。銀行に払われた両替料はなくなります。

社会経済情勢の変化

第二臨調の目的は、「社会経済情勢の変化に対応した適正かつ合理的な行政の実現」とされているように、日本を取り囲む内外情勢の激変に対処する道をさぐることにあった。一九七〇年代に世界は二度にわたる石油ショックに襲われて、日本も深刻な不況から脱出するため建設国債赤字国債特例国債)を乱発して公共事業の大盤振舞いを行い、一九八〇年代に入ると、いまほどではないが財政という国の財布は慢性的で深刻な赤字に陥った。

一方、日本の同盟国である米国ではロナルドーレーガン大統領が一九八一年一月にホワイトハウス入りして、ソ連に対する激しい軍事対決路線と、景気回復のための大幅な減税を打ち出した。その結果、軍事費の急増と大幅な減税、それに輸入の急増で、財政赤字貿易赤字が膨らんで、米国は「双子の赤字」を抱え込んだ。

米国は、日本に対し軍事分担を要求し、世界経済を不況から救うために内需の拡大を迫った。すでに、レーガン大統領の前任者のダミー・カーター大統領の時代の一九七七年の先進国首脳会議で、日本の福田赳夫首相が「国際経済の牽引車」となることを約束したこともあって、同年度の補正予算後の公債依存率は実に三四%に達していた。

第二臨調が直面した「社会経済情勢の変化」とは、国際的には米ソ冷戦の深刻化であり、国内的には財政破綻の危機だった。一九八三年三月にその役割を終えるまで、第二臨調は五本の答申を鈴木善幸中曽根康弘両首相に提出しているが、一九八二年七月の「行政改革に関する第三次答申−基本答申」がハイライトであり、社会保障の切り下げをはじめ、その後の日本の進路を大きく規定した。第三次答申は、激変する社会・国際情勢のなかで、今後の日本がめざすべきものとして、国内的には「活力ある福祉社会の建設」を、対外的には「国際社会に対する積極的貢献」を掲げた。

今後重要になるので、「活力ある福祉社会」の定義を答申から引用しておこう。「個人の主体性・自立性がこれまで以上に発揮され、家庭や近隣・職場等において連帯と相互扶助が十分に行われ、民間活力が積極的に活かされることを基本とし、適度の経済成長のもとで、各人が適切な職場を確保するとともに、雇用・健康・老後の不安等に対する基盤的な保証が確保された社会」だという。

無常感はアニミズムが原点

日本の無常感文明と西欧の要塞文明に働く法則について、見てきた。ここではアニミズムから生まれた日本の八百万の神々を中心に日本文明の性格を考えてゆくことにする。いかなる文明にしろ、文明は宗教と深い関係にある。というより、その基層をなすものであるから、宗教抜きの文明論は本質を欠いた文明論となってしまうのである。

しかし、そうはいっても日本の宗教と文明とのかかわりはあまりに困難で巨大なテーマであり、とても私のような宗教学や歴史学の門外漢である一心理学者の手に負えるものではない。

だが、ユング派の臨床心理学者による日本神話研究やフロイト派の精神医学者による日本説話研究に見るように、心理学者だからこそ宗教学者歴史学者には見えなかった文明の構造をえぐり出すことも可能なのであり、そこに研究の可能性と意義を私は見出したいのである。

さて、宗教と日本文明についてであるが、最初に天皇をその中にどう位置づけるべきかを考えてみたい。天皇の位置づけを決めることなしに日本文明と宗教の問題を語ることはできないからである。

天皇主義者は天皇を鍵に分析しないと日本文明の本質が見えなくなると主張する。しかし私は、天皇を強調すればするほど逆に日本文明の本質が見えなくなると考える。これは「古事記」を読めばわかる。

古事記」はその冒頭の部分はじつに素朴なアニミズムの神々を描いている。その神々のうち、イザナミ、イザナキが日本を作るのだが、この素朴なアニミズムの世界がもともとは有力豪族の一つにすぎなかった天皇家の支配を正統化する物語へと次第にすり変わってゆく構造を持っているのが「古事記」なのである。

要するに、古代から日本列島に流れ着いたか自然発生的に生まれていた、起源も定かではない素朴なアニミズムの世界と、天皇家の支配を正統化するためのマインドーコントロールの物語をドッキングさせた構造こそが『古事記』の本質なのである。

古事記」は偽書だとの説もあるが、『日本書紀』も基本構造は同じである。だから、天皇を絶対視すればするほど逆に日本文明の本質を見落とすことになるのである。天皇支配以前のアニミズムの宗教世界こそが日本人の無常感の母体だからである。

あれほど権勢を誇ったにもかかわらず、最後は「露と落ち露と消えにしわが身かな」と自らを「露」に喩えた秀吉の無常感は、「永遠の命」を与えてくれる唯一絶対の神とは比較にならない「はかなさ」「もろさ」「あやうさ」を持ったアニミズムの神々の世界なしには生まれようがないのである。

機関投資家の実資力

機関投資家の実資力は、六二年六月末で生保八五兆円、特定金銭信託一五兆円、ファンド・トラストニ兆円、年金二三兆円、株式・投信二六兆円とみられている。しかも恐るべきことに、さらに毎年五〜八兆円ずつ仲びているのである。

そして、これら機関投資家の動き方はきわめて神経質に動くのが特徴的である。新しいユーロ債券が出れば相当な額を買いにまわったり、円高が急進すれば一時的ながら海外証券投資は全面ストップ模様に激変したり、六二年一月以降のように人気離散の西独株式まで買い漁るかと思えば突如急停止し、国内に過剰な資金が急辿、国内株式・債券や地価の暴騰を招くほどの国内流動性のローハ常な膨れあがりを示したりするのである。

ひとことでいえば、きわめてナーバスな巨象だと思えばよいのである。どうして日本の機関投資家は神経質にならざるをえないのであろうか。基本的に現在続いている日米間の資金の流れを考えれば、いずれゆくゆくは日本国内の巨額な金融資産は米国の渦巻く資金ニーズのプラスとの恐怖心からではないかと思われる。

社会制度の作り直し

エンターテインメント分野の朗報といえば、ビデオソフトがネットワークで借りられるようになることである。現在、ビデオを見るのは、心理的な力べが厚い。ビデオソフトを借りにレンタルショップまで足を運ぶのも面倒だが。楽しみが終わった後に返却に行くのはもっと白けた思いがする。自宅でビールでも飲みながら手軽に好きなビデオを安い利用料で楽しめるのなら、マルチメディア時代よ早く来たれ。

人々の勤務形態も影響を受ける。取引先との交渉、社内の会議、通常の業務の処理などはネットワークを使って実行することができる。実際、松下電器産業の情報通信研究所をはじめとして、社内会議でも一堂に会することがなくなったところもある。自分の席のテレビカメラつきのパソコンを使って参加者全員が在席したままテレビ会議を開く。米国の研究者の間ではかなり普及している。会議室がなくて済む。自席にいるので必要ならば他の仕事をやりながら会議に参加する、という芸当が可能である。もちろん、遠隔地のオフィス間ではもっと効果が大きい。出張して会議に参加する時間や経費が節約できる。「テレワーク」の発想も広がる。

どうせ、同じビル内にいてもマルチメディア装置を通じて仕事をするなら、通勤せずに自宅にマルチメディア装置を置いても仕事の内容は変わらないかもしれない。一部の職種では自宅で仕事をする「在宅勤務」や近隣のオフィスを拠点に仕事をする「サテライト勤務」などが広がるだろう。これはかねて言われたとおりだが、現在のパソコンでも安いコストでテレビ電話やテレビ会議ができる機能が備わりつつあり、その実現可能性は一段と大きくなっている。米国では、パソコン通信などを利用した在宅型勤務者は九四年で八百八十万人に達した、という調査もある。

社会制度の作り直しも大規模に必要だろう。これまでの人類はマルチメディアの存在を予測しないで仕組みを作ってきた。現在の社会は、マルチメディアがない時代にその環境の中での最適を求めて作り上げてきたものである。法律や規則などの社会ルール、学校や家庭での教育体系、産業や企業の在り方など、作り直しが必要な対象は社会の仕組みのすべてに及ぶだろう。そのいくつかは、変革に手がつき始めたが、まだまだ解決しなければいけないことは山ほどある。

マルチメディアを基盤にした新しい社会に移行するには、壮大な社会の作り直しが必要であるだからだ。その社会の作り直しをわたしは、社会体系の根本的な革新という意味で「ツーシャループロセスーリエンジニアリング(SPR)」と呼んでいる。これまでのところ、SPRという用語は米国の文献などでもお目にかかっていない。わたしの造語であるが、もし、SPRを使っている経営学者の方がいれば。それはきっとここで使う意味とは違うかもしれないので、注意されたい。用語法はそちらの方が正しいだろう。わたしは経営学者の方と用語法で争う自信はないので、あっさりと引き下がることにしたい。

にもかかわらず、わざわざ慣れない英語を使っているのは、理由がある。SPRは単独で突然現れるのではないからだ。企業内部で激しい組織変革を引き起こすBPR(ビジネスープロセスーリエンジニアリング)に続いて、その延長線上に起こるのがSPRである。最初の節で詳しく述べた「新聞革命」を例に説明しよう。新聞記者が現場でパソコンを打って記事を作成するようになって、新聞社の業務プロセスや組織形態は大きく変化した。原稿作成から送稿、コンピューター入力、校閲などのプロセスが根本的に簡略化したが、こうした企業内部の業務体系の作り直しを、経営用語ではBPRと呼んでいる。