ジョンソンとベトナム

いまとなっては、それは誰にもわからない。だがケネディには、ジョンソンにはない柔軟性がめったことだけはまちがいない。彼は昔から、たとえ以前に自分がある考えかたに与していたとしても、その後状況が変わった場合には、いつまでも古くなった主義や主張にしがみついているのは愚かなことだといい続けていた。自分に対して自信をもっていた彼には、途中でみずからの考えを変える勇気もあったにちがいない。また彼は、べトナム戦争が、究極的には、民族自決のための戦争であることも理解していた。

もちろんベトナムが、共産主義と闘わなければならなかったアメリカにとって非常にむずかしい問題であったことは事実だが、そのことを考慮に入れるならば、もしケネディが生きていたら、あそこまでひどい悲劇をアメリカは味わわなくてもすんだのではないか、と考えることは許されるのではないだろうか。

ケネディに代わって大統領の座に着いたジョンソンは、国防長官のマクナマラを筆頭に、ケネディの優秀なスタッフの多くをその政権に引き継いだ。リンカーンケネディの暗殺の類似性ぱ昔からよく指摘されている。リンカーンを暗殺したブースは一八三九年生まれであり、オズワルドは一九三九年生まれだった。そして二人とも、裁判にかけられる前に、別人によって殺された。二人のあとを受けて副大統領から大統領に就任したのは、どちらもジョンソンだった。

アンドルーとリントンのこの二人のジョンソンは、名前だけではなく、性格的にもよく似ていたといわれている。二人とも同性に対してはまったくというほど気がきかないにもかかわらず、女性に対してはめっぽう親切で、その方面で前任者の業績を凌ぐのにきわめて熱心だった。リンドンージョンソンに関しては、自分のまわりにいる女性全員に焼きごてを押そうとしていた、とまでいわれている。また、二人のジョンソンはともに、大統領が殺された翌日に閣議を招集し、前任者が確立した政策を引き継いで実行に移すつもりだと宣言した。どちらの日にも雨が降っていた。

そのことを取り上げて一部の人間は、ジョンソンはベトナムにおけるケネディの政策を継承したにすぎないといわれるが、やはりその指摘ほまちかっているといわざるをえない。なぜならば、そこには、鋭敏な歴史感覚をもち、ケネディ政権のなかでもっともこの戦争に懐疑的だったケネディ本人が存在せず、ケネディと同様に歴史認識に秀でていたリベラル派のシュレジンガーガルブレイスといった面々は、ジョンソン政権の下では、外交問題に対してほとんど口出しすることを許されていなかったのである。そしてその政権の中心には、一九六一年にベトナムに派遣されて、「東南アジアにおける共産主義との闘いには、必ずや成功を収めるとの決意と力をもって当たらねばならない」という強固な信念を抱いて帰国したジョンソンがいたのである。