無常感はアニミズムが原点

日本の無常感文明と西欧の要塞文明に働く法則について、見てきた。ここではアニミズムから生まれた日本の八百万の神々を中心に日本文明の性格を考えてゆくことにする。いかなる文明にしろ、文明は宗教と深い関係にある。というより、その基層をなすものであるから、宗教抜きの文明論は本質を欠いた文明論となってしまうのである。

しかし、そうはいっても日本の宗教と文明とのかかわりはあまりに困難で巨大なテーマであり、とても私のような宗教学や歴史学の門外漢である一心理学者の手に負えるものではない。

だが、ユング派の臨床心理学者による日本神話研究やフロイト派の精神医学者による日本説話研究に見るように、心理学者だからこそ宗教学者歴史学者には見えなかった文明の構造をえぐり出すことも可能なのであり、そこに研究の可能性と意義を私は見出したいのである。

さて、宗教と日本文明についてであるが、最初に天皇をその中にどう位置づけるべきかを考えてみたい。天皇の位置づけを決めることなしに日本文明と宗教の問題を語ることはできないからである。

天皇主義者は天皇を鍵に分析しないと日本文明の本質が見えなくなると主張する。しかし私は、天皇を強調すればするほど逆に日本文明の本質が見えなくなると考える。これは「古事記」を読めばわかる。

古事記」はその冒頭の部分はじつに素朴なアニミズムの神々を描いている。その神々のうち、イザナミ、イザナキが日本を作るのだが、この素朴なアニミズムの世界がもともとは有力豪族の一つにすぎなかった天皇家の支配を正統化する物語へと次第にすり変わってゆく構造を持っているのが「古事記」なのである。

要するに、古代から日本列島に流れ着いたか自然発生的に生まれていた、起源も定かではない素朴なアニミズムの世界と、天皇家の支配を正統化するためのマインドーコントロールの物語をドッキングさせた構造こそが『古事記』の本質なのである。

古事記」は偽書だとの説もあるが、『日本書紀』も基本構造は同じである。だから、天皇を絶対視すればするほど逆に日本文明の本質を見落とすことになるのである。天皇支配以前のアニミズムの宗教世界こそが日本人の無常感の母体だからである。

あれほど権勢を誇ったにもかかわらず、最後は「露と落ち露と消えにしわが身かな」と自らを「露」に喩えた秀吉の無常感は、「永遠の命」を与えてくれる唯一絶対の神とは比較にならない「はかなさ」「もろさ」「あやうさ」を持ったアニミズムの神々の世界なしには生まれようがないのである。