社会経済情勢の変化

第二臨調の目的は、「社会経済情勢の変化に対応した適正かつ合理的な行政の実現」とされているように、日本を取り囲む内外情勢の激変に対処する道をさぐることにあった。一九七〇年代に世界は二度にわたる石油ショックに襲われて、日本も深刻な不況から脱出するため建設国債赤字国債特例国債)を乱発して公共事業の大盤振舞いを行い、一九八〇年代に入ると、いまほどではないが財政という国の財布は慢性的で深刻な赤字に陥った。

一方、日本の同盟国である米国ではロナルドーレーガン大統領が一九八一年一月にホワイトハウス入りして、ソ連に対する激しい軍事対決路線と、景気回復のための大幅な減税を打ち出した。その結果、軍事費の急増と大幅な減税、それに輸入の急増で、財政赤字貿易赤字が膨らんで、米国は「双子の赤字」を抱え込んだ。

米国は、日本に対し軍事分担を要求し、世界経済を不況から救うために内需の拡大を迫った。すでに、レーガン大統領の前任者のダミー・カーター大統領の時代の一九七七年の先進国首脳会議で、日本の福田赳夫首相が「国際経済の牽引車」となることを約束したこともあって、同年度の補正予算後の公債依存率は実に三四%に達していた。

第二臨調が直面した「社会経済情勢の変化」とは、国際的には米ソ冷戦の深刻化であり、国内的には財政破綻の危機だった。一九八三年三月にその役割を終えるまで、第二臨調は五本の答申を鈴木善幸中曽根康弘両首相に提出しているが、一九八二年七月の「行政改革に関する第三次答申−基本答申」がハイライトであり、社会保障の切り下げをはじめ、その後の日本の進路を大きく規定した。第三次答申は、激変する社会・国際情勢のなかで、今後の日本がめざすべきものとして、国内的には「活力ある福祉社会の建設」を、対外的には「国際社会に対する積極的貢献」を掲げた。

今後重要になるので、「活力ある福祉社会」の定義を答申から引用しておこう。「個人の主体性・自立性がこれまで以上に発揮され、家庭や近隣・職場等において連帯と相互扶助が十分に行われ、民間活力が積極的に活かされることを基本とし、適度の経済成長のもとで、各人が適切な職場を確保するとともに、雇用・健康・老後の不安等に対する基盤的な保証が確保された社会」だという。