徹底したサービス向上を追求する

「ママ、あれ買って〜」「良かったです。買い物しました」「今まであまり二階に上がったことがなかったんですけど、何かやっているみたいだったので」お客の反応も上々のようだ。向かいの中華レストランにも人が流れ込み始めている。上原さんの起死回生の一手は、幸先の良いスタートを切った。一月三〇日、足柄サービスエリア(下り線)は帰省ラッシュを迎えていた。この日は年間目標達成のためにも、売り上げを確実に伸ばさなければならない。上原さんは、帰省客を狙って、特別な土産品を用意していた。小田原名産の特上かまぼこである。五〇〇〇円以上もする高級品を揃え、さらに試食を行ってアピールする作戦だ。試食コーナーに集まってきたお客に、「歯ごたえいいでしょう。プリプリだと思いますよ」と上原さん自ら声をかける。

注目の中間売り上げ報告。予想以上にかまぼこが売れていた。実際に売れていたのは、特別に用意した高級品ではなく、店の奥にある手頃な値段のものだったが、高級品の試食が呼び水となったのである。上原さんも「やっぱ、試食っていいですね」と満足げな表情を浮べていた。年が明けて、上原さんはサービスエリアにほど近い老舗の和菓子店を訪れた。実は、新しい土産品の開発を依頼してあったのだ。老舗特製の餅菓子。餅で地元の甘露醤油を包み込んだ商品「富士の雫」である。

「おいしい。良いものを出していくということが、これからにもつながっていくと思いますので、良いものを作っていきましょう」上原さんは、地元の店との共同開発に確かな手応えを掴んでいた。覆面調査チームがテナントを評価する名神高速を走る一台の乗用車。あるサービスエリアに立ち寄ると、車内から一人の男が出てきた。真っ先に向かったのはトイレである。洗面台にきれいな花が飾られているのを見て、感心した様子だ。「お母さん、きれいだね。いつも、ありがとうございます」と、トイレの清掃をしていた女性に声をかける。

この男は、西日本高速道路CEOの石田孝さん(六五歳)だ。かつて神戸製鋼の専務だったが、公団民営化の際に改革のリーダーとして白羽の矢が立てられた。以来、さまざまなサービス改善を実行している。「一にトイレ、二にトイレ。それが、一にお客、二にお客、三、四がなくて、五にお客に通じるんです」と語る。徹底したサービス向上を追求するために、石田さんはサービスエリアの状況をチェックする覆面調査チームを編成した。メンバーは、元一流ホテルマンや元客室乗務員など、サービスのスペシャリストたちだ。

覆面チームは、サービスエリアに入ると手分けして、調査に当たる。商品棚にホコリはないか。ガラスケースに拭きむらは残ってないか。エアコンの吹き出し口はきれいか。照明器具の電球は切れてないか。商品を出す時の店員の接客態度はよいか。こまかな点まで、チェックしていく。サービスや衛生面などチェック項目は四五に及ぶ。それぞれに点数が付けられ、AからEまでの五段階にランク分けされる。この覆面調査の結果は、西日本高速道路サービスHPに上げられ、そのサービスエリアの担当者を通じて、現場に指示が出される。最低ランクのEが二年続くとテナントは撤退させられるため、現場も緊張感を持って調査結果を受け止めていた。

規制緩和のかけ声

省庁再編後も、旧省庁の省益重視の「綱引き」が頻繁に見られるように、行政は依然「縦割り」のままだ。政府に改革を迫るはずの政治家は、国民の付託に応えるというよりも、相変わらず自分の選挙の得票のことしか念頭にない「族議員」が践厄して、かえって改革を遅らせているのが実情である。

実は一九九四年八月に政府は「高度情報通信社会推進本部」を設置している。この組織は内閣総理大臣を本部長、内閣官房長官郵政大臣通産大臣を副本部長、その他全閣僚を本部員とするもので、外見からは政府の一体的な取り組みが行われているように見える。ところが、ここ数年、不安定な政権が続く政治状況のなかで、短期間に次々に替わる閣僚が並び大名のように名を連ねていても。実のある政策が打ち出せるはずがない。すなわち、世の中に責任を持っている人々がインターネットに対する意欲や認識を欠いていると言わざるを得ない。このことはアメリカ政府と比べてみれば、一目瞭然である。

したがって、規制緩和のかけ声にもかかわらず、インターネット社会にふさわしい形にはなかなか変えられないということになる。一例が、書籍や新聞に認められている再販売価格維持制度である。アメリカでは書籍のオンライン販売が従来の書店を凌駕しつつあることは、本書でも紹介した通りである。オンライン販売だと店舗が要らず、在庫コストも少なくてすむので、アマゾン・ドットーコムのように本の値段が約四割も下げられるのだが、日本では再販制度があるため、オンラインで買っても安くはならない。既得権益にしがみつく業界や団体の力が強い限り、この構造を変えることはできず、インターネットの発達を阻害していると言わざるを得ない。

もう一つは、英語のハンディキャップである。もともとインターネットはアメリカから始まったものであり、基本的には英語の世界だ。日本人は英語が苦手なので、このままでは欧米諸国だけでなく近年情報インフラへの取り組みに意欲的なシンガポールやマレーシアなどの後塵を拝する可能性が大きい。解決策としては、英語をコミュニケーションの道具である世界共通語として、小学校から教育することである。

糖尿病発症がショック

糖尿病発症がショックで心を入れかえた(男性・初診時四一歳)Bさんは真面目な中学校の先生です。学生時代は痩せていたのですが、教師になってからは、ストレスを食べることとアルコールで解消するようになりました。夕方になるとはとんど毎日つきあいで赤提灯に行き、一杯やりながらヤキトリ、おでん、天ぷらを食べ、そして夕食。そのうえ寝る前に和菓子かバウムクーヘン、というのか癖になってしまいました。

三〇歳頃から太ってきましたが、これといった運動らしきこともせず、同しような毎日を送っていました。一九八八年(四一歳)検診で高脂血症(総コレステロール三四二《以下同》、二二〇以上が高脂血症、)と診断され当科を受診しました。一時的にはコレステロール値の低下が認められましたが、九〇年(四三歳)より再度上昇したので栄養指導を行いました。一七〇センチ、七四キロ、二〇〇〇〜二五〇〇キロカロリーの摂取、油料理が多く、運動らしきことは全くやっていない、との記録があります。その後七回栄養指導を受けていますが、油料理と菓子類の間食か多く食事内容は全く変わりませんでした。

九四年一一月(四七歳)体重八二キロ、空腹時血糖が二二六以上が糖尿病)と上昇してきました。九五年二月体重八五キロ、空腹時血糖二三八、三月空腹時血糖三二一、油料理と菓子類と運動不足のためにとうとう糖尿病が発症してしまったのです。その後三週間入院、糖尿病に関する教育を行い、経口糖尿病薬による治療を開始しました。

退院時体重八一キロ、空腹時血糖が一二〇。以後外来治療を行っていましたが、同年七月減量と糖尿病コントロールのための入院希望があり、夏休みを利用して三週間入院しました。この二度目の入院の時に生活習慣を変える決心をし、食事はハ○○キロカロリー、一日三食バランス良く食べる、つきあいで行っていた赤提灯はやめる(もともとアルコールはそれほど好きではなかったようですが)、夜食は絶対にしない、一日一万歩以上必ず歩く、
という目標を忠実に実行しました。

効果はてきめんでした。九六年四月体重七七キロ空腹時血糖一三〇。六月体重七三キロ、空腹時血糖一三ニ夏休み期間はエネルギー量を三○○キロカロリーに減らし、運動量を増やしたので九月には体重六六キロ、空腹時血糖が一一四になっていました。九七年一一月体重六三キロ、空腹時血糖九三、糖化ヘモグロビン(基準値四・四〜五・八%)四・九%と低下していたので、経口糖尿病薬を半分に減量、九八年九月体重六三キロ、糖尿病のコントロール状態も良好だったので経口糖尿病薬を中止しました。以後も定期的に通院し、検査を続けていますが、九九年九月(五三歳)体重六三キロ、空腹時血糖八六、糖化ヘモグロビン四・八%、総コレステロール一八二でした。生活習慣の改善により糖尿病が治ったといっても過言ではない症例です。

組織的比較例証法

それはヴェーバーの理論を土台にした理論的予測であった。その予測から導き出された仮説に基づく、研究プランをベラは考えたのである。それは日本の前近代社会における宗教倫理の研究であり、西洋のプロテスタントの倫理と同じ社会的役割を果たした、日本の価値体系の研究でもあった。

このような仮説の下にベラは、徳川時代の商人階級出身の学者石田梅巌(一六八五〜一七四四)を始め、徳川時代における神道、仏教、儒教の価値観を研究して、そこにプロテスタントの倫理と同じ勤勉、節約、経済的成功などを評価する倫理が存在することを確かめた。もちろんベラはこのように資本主義の発展にとって、積極的に貢献するような、宗教倫理の存在を実証したからといって、西洋社会と日本社会との近代化の過程が同じだったというわけではない。

日本社会は、自分自身で近代の合理主義的な思想を発達させたわけではなかった。また日本の前近代社会における経済発展が、特にめざましいわけでもなかった。むしろ日本が、富国強兵を軸とする近代化の過程を、開始しなければならなかったとき、これらの前近代社会の宗教倫理が、日本型の資本主義の発展に、積極的な役割を果たすことになったというに過ぎない。さらに後進国としての日本の近代化の過程は、政治権力つまり国家の強力な統制と指導とによって、初めて可能となった。

以上のような分析を行ったペラの日本社会研究のモデルは、ヴェーバーの比較社会学のモデルと異なって、パラメータを含んではいない。しかしヴェーバーの比較宗教社会学の古典的モデルを、日本に適用するというベラの理論的、方法論的発想は、アメリカの学界で高く評価された。そして「徳川の宗教」と名づけられた彼の博士論文は一躍、現代の古典としての地位を獲得することになった。

さて以上のように社会の全体像を、歴史的な変化をも含めて把握する方法は、比較社会学の方法として定着してきた。今日、組織的比較例証法(systematic comparative illustration)と呼ばれる方法は、マックスーヴェーバーの、プロテスタントの倫理の研究に見られるように、実験的方法、統計的方法と全く同じ論理に基づいて構成されている。すなわちここでは独立変数の従属変数に対する時間的先行、両変数の共変、そしてその他の重要な変数の統制という条件が追求されている。

しかしこのような比較例証法は、実験的方法とは異なり、研究者が自らの意志によって、状況を操作しているわけではない。いうまでもなく研究者に、資本主義の発展というような、過去の歴史的変化を操作できるわけがない。比較例証法においては、サーヴェイ・リサーチの方法と同じように、研究者は概念的に変数を操作して、因果関係についての推論を行ない、歴史的資料によって、その推論を実証しようとしているのである。

組織的比較例証法

ヴェーバーの理論を土台にした理論的予測であった。その予測から導き出された仮説に基づく、研究プランをベラは考えたのである。それは日本の前近代社会における宗教倫理の研究であり、西洋のプロテスタントの倫理と同じ社会的役割を果たした、日本の価値体系の研究でもあった。

このような仮説の下にベラは、徳川時代の商人階級出身の学者石田梅巌(1685〜1744)を始め、徳川時代における神道、仏教、儒教の価値観を研究して、そこにプロテスタントの倫理と同じ勤勉、節約、経済的成功などを評価する倫理が存在することを確かめた。もちろんベラはこのように資本主義の発展にとって、積極的に貢献するような、宗教倫理の存在を実証したからといって、西洋社会と日本社会との近代化の過程が同じだったというわけではない。

日本社会は、自分自身で近代の合理主義的な思想を発達させたわけではなかった。また日本の前近代社会における経済発展が、特にめざましいわけでもなかった。むしろ日本が、富国強兵を軸とする近代化の過程を、開始しなければならなかったとき、これらの前近代社会の宗教倫理が、日本型の資本主義の発展に、積極的な役割を果たすことになったというに過ぎない。さらに後進国としての日本の近代化の過程は、政治権力つまり国家の強力な統制と指導とによって、初めて可能となった。

以上のような分析を行ったペラの日本社会研究のモデルは、ヴェーバーの比較社会学のモデルと異なって、パラメータを含んではいない。しかしヴェーバーの比較宗教社会学の古典的モデルを、日本に適用するというベラの理論的、方法論的発想は、アメリカの学界で高く評価された。そして「徳川の宗教」と名づけられた彼の博士論文は一躍、現代の古典としての地位を獲得することになった。

さて以上のように社会の全体像を、歴史的な変化をも含めて把握する方法は、比較社会学の方法として定着してきた。今日、組織的比較例証法(systematic comparative illustration)と呼ばれる方法は、マックス・ヴェーバープロテスタントの倫理の研究に見られるように、実験的方法、統計的方法と全く同じ論理に基づいて構成されている。すなわちここでは独立変数の従属変数に対する時間的先行、両変数の共変、そしてその他の重要な変数の統制という条件が追求されている。

しかしこのような比較例証法は、実験的方法とは異なり、研究者が自らの意志によって、状況を操作しているわけではない。いうまでもなく研究者に、資本主義の発展というような、過去の歴史的変化を操作できるわけがない。比較例証法においては、サーヴェイ・リサーチの方法と同じように、研究者は概念的に変数を操作して、因果関係についての推論を行ない、歴史的資料によって、その推論を実証しようとしているのである。

日本資本主義論争

日本は、本当の意味での資本主義ではない!──岩瀬大輔(ライフネット生命保険 代表取締役副社長)

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建築物の壁面線後退

これが完成すれば、歩道は車道側に一メートル、民地側に二・五メートル、計三・五メートル、現在よりも広がるうえに、重苦しいアーケードが取り去られるやら、ずいぶんひろびろとのびやかになった。さらに角地の部分に、改修を予定していた四つのビルについては、もっとゆったりとした角地の広場をとってもらおうという計画がまとまってきた。銀行や証券会社というむずかしい相子ではあったが、建築法規よりも地元の協定が優先するという地元と市の強い態度により、銀行は二階を含めて八メートルの後退が実現した。

こうした考えは、いきなり計画案を押しつけたのではなく、まず馬車道商店街の人びとが街の復興のムードをつくり、そのために「街づくり憲章」としての協定書をつくり、互いの意思統一をするところから始まった。協定は昭和五〇年の四月にまとまったが、基本方向の第一には、「馬車道は開港横浜の歴史の重みを擁する伝統ある所である」「文化色豊かな街づくりとして、保全、修復する」とし、「人間優先の街路とし、緑と太陽のあふれる歩行者空間創造の街とする」としている。

こうした協定を生かすため、具体的な案としてまとめたデザインにょって、さきほどのアーケードを撤去したり、街路樹や品のよい街路灯の設置などにつながるのである。自主的な相互意思の確認が第一で、物的デザインはそれを具体化する手段として、モの後についていったのである。そうでなければ、この当時、アーケードを新しくつけてゆく商店街も多かったのに、撤去するという思い切った案が実現できるわけはない。

協定の内容としては、建築物の壁面線後退、公用空地、高さ、共同化、建物の色、看板の形態、大きさ、取付位置などから、歩道の幅、仕上り、車両交通の規制、車種制限、商品等の搬入時間、搬入場所、ストリートファニチャー、さらに低俗品々スポンサー名の大きなものの排除、防災、清掃、遣水、イベントや祭などと、法定の建築協定ではとうてい不可能な広汎な内容をもっている。

なかには、市の行政や、警察の行政に関することまで入っている。直接の権限がないからといって、協定できないことはない、決められた方針で、関係機関に働きかければよいのである。自主的な市民が、互いに合意して定めれば、都市づくりに必要なことはすべて盛りこむことができる。なかでも、自らも壁而線を後退させて、歩行軒字問をつくってゆこうという手法は、要求ぽかりでなく市民側も公共空間に協力しようという自主的な耶市づくりとして評価される。

高血圧症と高脂血症の合併例

定年後、暇ができたので食べ歩きに間食ざんまい(女性・初診時五九歳)Fさんは五五歳頃から高血圧、高脂血症を指摘され、近医から投薬を受けていました。一九八八年五月(五九歳)運動時胸部不快感の精査目的で当科を受診しました。身長一四九センチ、体重四七キロ、血圧一五五/九五、総コレステロール二六八、HDL(いわゆる善玉)コレステロール五七(以下同、基準値四〇以上)、中性脂肪七七、降圧剤と高脂血症治療薬を投与されました。トレッドミル運動負荷試験(電動ベルトの上を歩き、心臓に負担をかけながら血圧と心電図を測定する試験)は全く異常なく、狭心症ではない、との診断でした。

定年退職後、運動量が減りました。暇ができたので海外旅行にでかけグルメツアー、国内ではフランス料理、自宅では間食に和菓子とフルーツ、という生活が始まりました。九〇年一月(六一歳)体重五一キロ、血圧一四六/九六、総コレステロール二五八、高脂血症治療薬を服用していましたが、ほとんど無効でした。そこで食事指導を行ったところ、一年間程は間食をやめ、一四〇〇〜一五〇〇キロカロリーのエネルギー制限をかなり熱心に実行しました。その結果体重四七キロ、血圧一三〇/八五、総コレステロールー一〇〇と改善しました。

しかし生活か徐々に元にもどり、総コレステロール二三〇が続きました。九七年八月(六七歳)、血圧一三〇/八〇、総コレステロール二七一。一〇月末以降、寒い日に外出すると胸痛を自覚するようになりました。一月にはいり、寒いところで一五〇メートル歩くと胸が痛くなる日が続き、当科受診、狭心症と診断され入院となりました。冠状動脈造影検査により左、右の冠状動脈に九〇%狭窄が認められ、経皮的冠状動脈形成術(PTCA、カテーテル先端部分のバルーンを膨らませ。冠状動脈の狭くなった部位を拡張する治療方法)が必要と診断されました。

この例は高血圧症と高脂血症の合併例です。高血圧症がよくコントロールされていたのとは対照的に、総コレステロールは高値か続いていましたから。冠状動脈硬化症悪化の主な原因は総コレステロールが長期間高かったことだと推測されます。九八年一月にPTCAを行いましたが、その後の総コレステロール値が依然として高く(二三〇〜一四〇)、動脈硬化性病変が進行して狭心症がまた起こるのではないかと心配です。