規制緩和のかけ声

省庁再編後も、旧省庁の省益重視の「綱引き」が頻繁に見られるように、行政は依然「縦割り」のままだ。政府に改革を迫るはずの政治家は、国民の付託に応えるというよりも、相変わらず自分の選挙の得票のことしか念頭にない「族議員」が践厄して、かえって改革を遅らせているのが実情である。

実は一九九四年八月に政府は「高度情報通信社会推進本部」を設置している。この組織は内閣総理大臣を本部長、内閣官房長官郵政大臣通産大臣を副本部長、その他全閣僚を本部員とするもので、外見からは政府の一体的な取り組みが行われているように見える。ところが、ここ数年、不安定な政権が続く政治状況のなかで、短期間に次々に替わる閣僚が並び大名のように名を連ねていても。実のある政策が打ち出せるはずがない。すなわち、世の中に責任を持っている人々がインターネットに対する意欲や認識を欠いていると言わざるを得ない。このことはアメリカ政府と比べてみれば、一目瞭然である。

したがって、規制緩和のかけ声にもかかわらず、インターネット社会にふさわしい形にはなかなか変えられないということになる。一例が、書籍や新聞に認められている再販売価格維持制度である。アメリカでは書籍のオンライン販売が従来の書店を凌駕しつつあることは、本書でも紹介した通りである。オンライン販売だと店舗が要らず、在庫コストも少なくてすむので、アマゾン・ドットーコムのように本の値段が約四割も下げられるのだが、日本では再販制度があるため、オンラインで買っても安くはならない。既得権益にしがみつく業界や団体の力が強い限り、この構造を変えることはできず、インターネットの発達を阻害していると言わざるを得ない。

もう一つは、英語のハンディキャップである。もともとインターネットはアメリカから始まったものであり、基本的には英語の世界だ。日本人は英語が苦手なので、このままでは欧米諸国だけでなく近年情報インフラへの取り組みに意欲的なシンガポールやマレーシアなどの後塵を拝する可能性が大きい。解決策としては、英語をコミュニケーションの道具である世界共通語として、小学校から教育することである。