「家制度」の復活阻止に気を吐く

各地の農協婦人部から声がかかり、講演に出向くようになりました。そのころ、夫が大学で研究生活に入り、二人で銀座に開いていた事務所も手が回らなくなってきました。一九五五年には息子の恭吾を出産。住み込みのお手伝いさんには恵まれましたが、子供のそばにいてやりたい思いもありました。事務所を高円寺の自宅に移し、「新法普及のために働くのも一手かな」と考え始めたのです。地方の女性たちの知識欲は旺盛でしたよ。公民館などで開かれる講演会では、実に熱心に聞いている。ただ、その場では質問せずに後で駆け寄ってきて、「実は」とあれこれ相談してくるんですね。「嫁の相続権」が聞きたいお姑さん。「夫の兄弟姉妹の相続権」に関心があるお嫁さん。「知りたい。だけど周囲には聞かれたくない」という事情もあったようでした。

こうした地方の講演では、「ウチで取れたから」とトマトだのトウモロコシだのをよく頂きました。四国の山村の手打ちうどん、福島の採りたての山菜など、素朴な好意が忘れられません。法律に関する出版活動も盛んな時期でした。日本全体が「新しい法律を学ぶ」意欲にあふれていましたね。私自身、婦人雑誌や週刊誌のコラムを何本も掛け持ちで担当したこともあります。事件処理と合わせて、寝不足になるほどの忙しさでした。「これまで不利な立場に置かれていた女性に配慮しながら、新しい民法の知識を正確に伝えたい」という気持ちが強まり、このころから「モノを書く」という仕事にも力を注ぐようになります。

事件の処理や法律解説のほか、私にはもう一つ大きな仕事がありました。「日本婦人法律家協会」の活動です。発端は司法修習生時代、あの「女性弁護士一期生」の久米愛さんの事務所で実習していた時でした。久米さんは、GHQのメアリーイースタリングさんという女性弁護士と、よく法律を巡って情報交換をしていました。そうした交流の中で、「多くの国に女性法律家の協会がある。日本にも設立してはどうか」という話が持ち上がったのです。女性の弁護士や裁判官はまだ、全国で十余人の時代でしたが、五〇年、女性の研究者にも呼びかけて集まれる者で婦人法律家協会を旗揚げしました。もちろん、私もメンバーになりました。

当初は親睦会のような雰囲気もあった協会ですが、気を吐くべき時はすぐにやってきました。五四年、法制審議会に「民法改正の必要があるとすれば、その要項を示されたい」という諮問があったのです。これに先立って、「旧来の家制度を廃止した憲法第二四条二項は日本の実情に適しないとの意見もあり、再検討の必要を内閣法制局が指摘した」という報道もありました。やっと男女平等を家庭の中でも手にしたばかりの女性にとって、これは危機です。会員の間に緊張が走りました。婦人人権擁護同盟などと協力して「民法研究会」も組織しました。「家族制度復活反対」のキャンペーンには、デモなどしたことのない一般女性も街頭に繰り出しました。

私は講演やパンフ作りに追われました。法律家仲間が我が家に集まり、時には泊まり込んで合宿のようでした。この時作られた『家族制度の復活を防ごう』という協会の小冊子には、会長だった久米さんや、明治大学教授だった立石芳枝さんに並んで、私の名前も記されています。協会は九五年に「日本女性法律家協会」と改称しました。私自身、その前の八六年から第四代の会長を務めることになりますが、女性に関する法的な動きがあるたびに発言するのは、当時から変わっていません。ところで、協会は、発足と同時に国際婦人法律家協会にも加盟していました。五二年には、トルコでの総会に出席する米国の女性法律家十五人が日本に立ち寄り、私かちとの予備会議を行いました。