実力主義社会

これがなぜ可能かというと、この国のマジョリティーヒンドゥーであったからだ。ヒンドゥー教には、強制も禁止もない。ヒンドゥーという名称も、本来は「インダス川の向こうにいる民族」という意味で他人がつけた呼び名である。他人からヒンドゥーと呼ばれる前には、インドのどの言語にも、この言葉さえ存在しなかった。宗教という意味の言葉で使われていたのは「永遠のダルマ」、いわゆる永遠の真理という意味の言葉のみであった。だから、我々ヒンドゥーと言われる人たちが、何かを守らなければならないことはないし、何かを排除することもない。インド式の給与システムは、横並びでもなければ、実力主義でもない、その中間と言える。インドは解雇については厳しく、なかなか解雇できないが、その一方で、すごく優れている人の給料を高くするとか、昇進させることについては、社会的に認められている。

一方では優れた人を誉めていきながら、一方では後に残された人たちの面倒も見ていく仕組みになっている。上でも下でもなく真ん中にいる人たちは、レイオフされない代わりに給料も増えないから、できるだけがんばって上に行こうという気持ちになる。最低限の保障と、努力が認められるシステムの両方を兼ね備えていれば、活気のある職場になる。また、インドでは社会保険雇用保険のシステムは(いい悪いは別として)充実していないので、どちらにせよ自分に頼るしかない。定年退職後もそうだし、食べていくにはあくまで自分で努力するしかない。最低限は守ってもらえるかもしれないけれど、努力しないとボーナスも少ないし、仕組みが個人主義的というか自己責任になっている。また、インドでは、いい学校に行って、いい会社に行って、いいお給料をもらうというような、一つの理想のコースがあるわけではない。インドは国上が広いせいもあって、地域ごとの特色を生かした仕事を選ぶ人も多い。

例えば金の宝石細工を作る町に育てば、自ずと宝石細工に詳しくなるので、そういう関係の職業に就けば他の地域で成功する確率も高くなる。また、多様性を特徴とするインド人には起業家精神旺盛な人も多い。フランスで暮らしたことのあるインド人女性は、植物染料だけを使って手作りされるインドの民族衣装・サリーが、ヨーロッパやフランスで人気が高いにもかかわらず、作っている人が脚光を浴びていないことに気づき、インドのサリー職人をフランスに連れて行くイベントを企画、フランスで大好評を博して大きなビジネスになった。普通は「物」を売るところ、「人」に注目するといった、人と違う視点を持って自分で動く人たちも多いという一例だ。現在、シティバンクという、世界を代表する金融機関の最高責任者はインド人である。また、米ペプシコの最高責任者はインド人女性になった。

日本の大手企業でトップが女性というケースはなかなかないと思うが、実はアメリカでも数社しかない。一方、インドでは多彩性の中に女性も含まれているため、ビジネスにおいてトップに立っているインド人女性は極めて多い。先にも述べたが、現在の大統領であるプラティーバー・デーヴィーシンーパーティル氏は女性である。インドでは何千年も前に、ガールギーという女性数学者が数学でトップだったという記録がある。ずっと長い間、女性は男性と同じレベルで勉強をはじめいろいろなことをやってきた。もちろん女性ならではの役割もあるが、差別をされていたわけではない。ムガル帝国があった何百年の間はイスラム教が基本だったので、女性がおとなしくしていたが、ヒンドゥー教の基本からいうと、男性は妻のことを「アルダンギニ」(私の半分)と呼ぶ。

これは、日本語が「奥さん」、英語では夫を指す「ハズバンド」が「面倒を見る人」という意味であるのと比べても、インドでは夫婦が平等なパートナーと見なされていることを示している。面倒を見る立場でも見られる立場でもない。宗教的な行事に参加する時は、結婚している男性なら妻と手を携えてでなければ参加できない。インドで女性が力を持っているというと、ダウリー(持参金)が足りないからと焼かれる女性はどうなのか、という話も出てくると思うが、これはインドの暗部の一つであり、社会の標準では決してない。しかし、近年は法律で禁止されているのにもかかわらず、ダウリーが問題になるケースが増えているようだ。ただし、お金のために妻を焼くような人は、実は裕福な人たちが多いようである。最近はアメリカ式資本主義の影響で、あまり教育されていない人も楽にお金を儲けられるような仕組みになってきていて、インド社会もお金至上主義に傾いてきているため、貪欲が引き起こす事件が増えているようだ。