経済犯罪の弱みを持つ

九〇年代末からは中国銀行幹部と癒着して融資を引き出し、市内の再開発に乗り出す。中国では土地は国有だが。九〇年代から使用権の有償払い下げが認められたため、住民を追い立てる再開発は業者だけでなく、地方政府幹部にとっても「カネのなる木」である。不動産業者は地元政府に払い下げ料さえ支払えば再開発の権利を手にできる。業者は再開発後の転売で莫大な利益を手にすることになり、政府指導者にも大きな恩恵をもたらす再開発は腐敗の温床になってきた。そこで二〇〇三年五月、上海中心街の再開発をめぐる疑惑で中国最強の捜査機関、党中央規律検査委員会が捜査に乗り出し、周を拘束した。当時、中国では新型肺炎(SARS)が蔓延し、江沢民以下、上海グループの主要指導者は感染を免れようとして上海に逃れた。そのため伝染病との闘いの先頭に立った胡指導部の威信は高まり、江派は窮地に陥る。

周正毅は黄菊だけでなく上海市党書記・陳良宇(一九四六年生まれ)の肉親や、江の息子らとも親交が深く、捜査は上海グループに対する胡の挑戦とみられた。ところが、その後、周の身柄は人知れず中央規律検査委から上海市公安局に移され、株価操作と資本金虚偽報告で懲役二年の判決を受けるにとどまった。背景には、捜査をめぐる胡と江の妥協があったのは間違いない。しかし、周の捜査で得られた証拠や証言の全貌は明らかにされておらず、中央規律検査委員会の手中にあった。黄の長い不在が政治的理由と疑われたのは、こうした弱みを握られていたためである。現代中国では最高権力者が代わるたび、前権力者の家族や側近が血祭りに上げられてきた。毛沢東が発動した文化大革命終結させるには、夫人の江青ら「四人組」の逮捕が必要だった。江沢民の権力掌握にも、郵小平の支持を享受してきた北京市党書記・陳希同の汚職摘発が伴い、鄭の次男質方が経営する会社まで捜査を受けた。胡が真に最高実力者となるための歴代指導者にならった「生け贅」が必要になれば、黄はもっとも狙われやすい立場にあった。

上海グループで同じく経済犯罪の弱みを持つのは、党内序列四位で政協主席の頁慶林(一九四〇年生まれ)である。一九九〇年代の福建省省長、党書記時代に、現職の公安部幹部まで巻き込んだ建国後最大の密輸事件「遠華事件」があったことが発覚し、政治責任を問われた。しかし江は、第一機械工業省時代からの同僚で、仲人までつとめた買を強引に陳希同が去った北京に送り込み、市長、党書記を任せた。北京の人民大会堂西に建設されたオペラハウス、国家大劇院や市西部の中華世紀壇は奇怪なデザインや莫大な建設費で市民の不評を買っているが、いずれも頁が北京時代に江の意を受け進めた「記念碑的」事業である。頁はその功績を買われ、中国でもっとも高い権威のある政協主席にまで引き上げられた。

しかし、頁の夫人、王幼芳は福建時代、自ら貿易会社の卜ップを務め、手広くビジネスを展開し、密輸事件との関連を取りざたされた。事件はその後、主犯の頼昌星がカナダに亡命したために全容は明らかではない。将来、中国とカナダの間で死刑免除など司法取引が成立し、頼の身柄が中国に引き渡されれば新事実が明るみに出て、頁の責任が問われることになりかねないだろう。だが、政協主席は過去、毛沢東や鄭小平も務めた権威の高いポストで、買の責任が問われても、その座を汚すような措置は取りにくい。胡は買白身に対する訴追はできず、名誉ある引退の道を許すはかないであろう。江沢民率いる派閥で台風の目といえたのが、党十六回大会(二〇〇二年)選出の党政治局常務委員九人中でもっとも若かった李長春(一九四四年生まれ)だ。

李は現代の中国で最高指導者になるには必須の条件とされる地方党組織のトップを、遼寧省省長、河南省党書記、広東省党書記と三つの大省で経験し、強力な政治手腕にも定評があった。江は政権発足当時、北京と並んで党中央の威令に従わず地元優先の政策を進め、「地方諸侯」化が進んでいた広東省に李を送り込み、自らに対する反対派を制圧させた。しかし、それだけに敵も多く、党十六回大会では政府ポストを兼ねることもなく、思想ふ日伝担当の政治局常務委員にとどまった。李自身も処遇に不満で、党大会を前に複数の地方組織から胡が総書記にふさわしくないという意見書が提出されたのは、背後に李がいたといわれる。胡より一歳若いだけの李の立場は微妙で、胡が二〇〇七年の党十七回大会で再選され、次期十八回大会(二〇一二年)まで総書記を務めれば李がトップに立つ芽はなくなる。しかし、胡に万一のことがあれば出番が来る可能性もあった。