人間らしく生きられることを最高の目標にする

夜九時ごろになるとこらえ性がなくなって、むやみにこどもを叱りたくなった……とBさんはふり返る。過労のなせるワザであったろう。夕食のメニューをあらかじめ考えておくゆとり
も、まったくなかったという。いつも冷蔵庫を開けて、そこにあるものでとっさにメニューを決めてきた。四番目の子のはる菜ちゃんを妊娠、出産して育児休業をとった一年間だけ、少しからだがラクになって、メニューもたてられるようになったし、はる菜ちゃんを抱いてはじめて、赤ちゃんてこんなにかわいいものだったか、と思ったそうである。おんぶもたっぶりしてやれた。「わが子をかわいいと思うひまもないのが看護婦だったんですBさんはそう言って、苦く笑った。

過労のあまり肺炎になって、病院に入院したこともある。熱があっても出勤していたあげくの果ての肺炎だった。若かったからそれでも回復できたのだろうが、危ない橋を渡ってきたも
のだ。ゆとりがほしい。ゆとりがないと、患者の内面まで思いやる看護はできませんものね……とBさんは声をおとすのだった。体重は四〇キロ台を上にして五〇キロをこえたことは一度もない。「看護は私の生き甲斐です」とCさんは何度も繰り返し言った。勤務が終わったあと、東京でひとり暮らしをしながら働いている娘のもとへ、車を走らせることがある。二時間の夜のドライブ。いい気分だ。面をまっすぐあげ、正確にリズミカルに、車線に乗ってゆく。からだもこころもどこも疲れていない。清明だと感じる。

内にも外にも暗くよぎるものがない。力が自然にあふれて、誰に向かっても何に出会ってもやわらかくほほ笑んで手をさしのべられる自信がある。娘といくつかの言葉を交わし、お茶の一杯ものんだら、来た道をまた引き返す。帰りの車のなかで思うのは、明日のだのしみだ。出勤。看護婦としての仕事につく。遠足に出かけるこどものように、Cさんは明日のたのしみに心をはずませる。一九四七年生まれ、勤め先は精神科の専門病院。患者を鉄格子の内側にとじこめない先進的な病院で二七一床、看護婦は八人、看護にニ○人。三十歳で准行護婦の資格をとって、二年間地域の総合病院で働き、いまの病院へ転進した。

生き甲斐としての看護という頂上に辿りっくまでには、九十九折の難所があった。Cさんといっしょに、院の内外を歩いたことがある。その目Cさんは非番で、ちょっとおしゃれをしていた。もっともこの病院では看護婦は白衣を着ない。キャップもつけない。患者がなじみやすいようにふだん着でケアをする。Cさんは、たいていジャージイのトレパンとブラウスといういでたちだが、その日はからし色のパリンとしたスーツ姿たった。V字型にくったスーツの胸もとを白のフリルのブラウスではなやかに飾ったCさんを見つけて、窓からすぐ声がかかった。きれいだねえ。似合うねえその服、女性患者は部屋の窓から身をのり出してよろこぶ。

「似合う? わあうれしい、私に興味を示す患者に向かって、Cさんはすかさずきょうはともだち連れてきたよう」と紹介する。私たちは互いに手をふりあってあいさつを交わした。患者の七〇%は分裂病で、二○%はアルコール依存症、七%が神経症だという。外来受診者はハ○人ぐらい。うつ病でここへ入院しながら委託事業所へ通う患者もいる。単身赴任や失恋などがきっかけで、心を病む若者も、あとを絶だない。人間らしく生きられることを最高の目標にするこの病院では、患者どうしの結婚はむしろ奨励されている。いまも数組のカップルがここで療養しながら暮らしている。