国をもてなかったクルド人の悲劇

同じく日本でよく知られた「庭の千草」(原題は「夏の名残りのバラ」)もまた、ケルトの失われた栄光を暗喩するノスタルジックな歌詞が、アイルランド人の郷土愛を盛りあげるのに一役買ってきた。民衆レベルでのこうした歌の人気と、待人、劇作家であり政治家でもあったイェイツなど知識人を中心とした「ケルト文芸復興」の高まりは、一九世紀から二〇世紀にかけてのケルトナショナリズムとよく呼応していた(イェイツはじめ文芸復興の提唱者自身は、ケルト系ではなく裕福なアングローサクソン系ではあったが)。

しかし、近代的なテロの報復合戦がはじまって以来、ケルト的なものを愛する民衆の心は、戦いを担う武装集団から離れていったようだ。一九九八年、和平合意成立。その賛否を問う北アイルランド住民投票では、七割以上が和平合意協定を支持している。和平合意の功労者二人(ヒュームとトリンブル)は、同年のノーベル平和賞を受賞した。

和平合意はなったが、和平プロセスはなかなか進まない。二〇〇〇年一月、過激組織の武装解除をめぐって合意は暗礁に乗り上げ、北アイルランド自治政府停止という深刻な事態が生じた。IRAはじめ武装組織は統一されていないだけに、全面的な武装解除は並大抵のことではない。また武装組織には、カトリック住民をプロテスタント側の暴力から守っているという自負かあり、たしかにその役割があることも否めない。和平プロセスの後戻りということは、今後もまず考えられないにせよ、プロテスタントカトリックの緊張がゆるむまでには、まだいくっもの課題が残されている。

「強い人」という意味の名をもつタルト人は、現在、二五〇〇万人ともいわれるが、その数は明らかではない。トルコ、イラク、イランに大きくまたがって居住し、一部はシリア、アルメニアにも住む。国境を越えた彼らの居住地は、とくにクルディスターンとよばれている。タルト人にとっては、民族の一体感、文化面での独自性を強く意識しており、この地方を独立国にしたいと願ってやまないが、各国政府は当然のことながらそれを許さない。そればかりか、分散している彼らを、各国が少数民族として扱い、軽視し、抑圧政策をとっている。起こるべくして起こっている、こうしたタルト人による各国での反政府運動か、一般に「タルト人問題」といわれている。

タルト人の起源は、前二〇〇〇年頃にはじまった印欧語族の移動によって移ってきたイラン系の人々と土着のグティ人が混血した頃にあるとされている。現在のタルト人は、さらにアッシリア、アラブ、トルコ、モンゴルなどの民族の侵入を経験し、それら民族との混血があったとも考えられている。

国をもてなかった彼らにも、これまでの歴史のなかで、建国の機会はなくはなかった。十世紀後半、イスラム帝国において、イーフクを中心にして栄えていたアッバース朝が崩壊すると、タルト人はイうクの北西 ワ部からシリアの遊牧民の地にかけて、地方上朝マルワーン朝を興した。勢いづいた彼らは、一一六九年には、タルト出身のサフーアッディーンがカイロを中心にアイユーブ朝を建国した。しかし、この広大なアイユーブ朝では、タルト人は軍人として力をもっていただけで、政治面までは占有することができなかった。